──こんばんは。徳川家康です。
徳川の世が終わって、二十有余年の時が流れましたよ。日本はようやく近代国家となったが、ここにきて、日本古来の伝統を重んじる考えや、江戸の世を再評価する機運が高まりましてね。そう。大日本帝国憲法発布と同じ年には…。
(祝砲の音)フッフッフッ。呼ばれたようだ──
明治22(1889)年 夏、東京上野で、徳川家康が江戸城に入って300年の節目を祝う「東京開市三百年祭」が開かれました。このお祭りを企画したのは、旧幕臣たちでした。福地源一郎、栗本鋤雲、前島 密、益田 孝、田辺太一らも上野に集まり、「今は亡き小栗さまに、献杯」と杯を傾けます。「先日、烈公(水戸斉昭)の肖像画を見てきた」と猪飼正為(勝三郎)が自慢げに話せば、見てみたいものですね、と渋沢栄一や喜作が笑い、川村恵十郎もうんうんと頷いています。そこに栄一を呼ぶ男が──徳川慶喜の弟・徳川昭武です。もう37歳になったので、もう民部公子ではない、と照れ笑い。永井尚志や高松凌雲も合流して、ある意味、同窓会に似たような雰囲気です。
静岡の慶喜邸では、そのお祭りで徳川宗家の家達が通ったときに人だかりができ、かつての直参たちがたくさん集まって涙ながらに祝っていたと、やすが興奮気味に話しています。東京の民は徳川を忘れておらんのやなぁと美賀子はしみじみ。栄一は慶喜にもぜひ参加してほしかったようですが、慶喜の家のことまでいろいろと世話を焼いてくれる栄一に美賀子は感謝しています。「渋沢を見出したのは平岡の慧眼であった、と」と慶喜の言葉を借りて言えば、やすはたまらず頭を下げます。
慶喜は子の厚と写真や絵画を楽しむ日々を送っています。
栄一は銀行業を中心に、製紙・紡績・鉄鋼・建築・食品・鉄道・鉱山・電力・造船など多くの産業に関わり、国際化に対応できる女性育成のための学校や病院、養育院など、教育施設や福祉施設の充実にも力を注いでいました。養育院運営の寄付を募る慈善会の会長は、妻の兼子が務めていました。また渋沢家では次女の琴子が大蔵省勤務の阪谷芳郎と結婚し、大内くにの産んだ文子も尾高惇忠の次男・尾高次郎との結婚が決まり、くには新たな人生を送りたいと渋沢家を出ていくことになりました。形はお妾さんではありましたが、千代も含めてくにを迎え入れてくれて、そしてくには渋沢家をいろいろとサポートし、とても良好な関係でした。「くには幸せどす。みなさんの立派に育ったお姿を、お千代さんに見せてあげたかった」
篤二は、栄一の嫡男であるので後継者として期待されていました。
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