プレイバック徳川家康・(34)渦中の人
文禄2(1593)年5月、秀吉が待ち望んだ第一次明国使節が小西行長らと日本に向かうと、三成の依頼で秀吉に和議の進言をした家康は、秀吉から講和条件のことで意見を求められていた。和議を進めながら戦場の指揮を同時に進め、かつ側室の淀が身ごもって腹の子が気になるし、豊臣秀吉には頭の痛いことばかりだとイライラを募らせます。
石田三成が差し出した秀吉による講和案に徳川家康は目を通します。明国公の姫を秀吉の妃とすること、勘合で双方の船を往来し盛んな貿易をすること、双方の大臣が誓書を交換して誼(よしみ)を通じることなど、7か条からなるものです。秀吉は朝鮮半島の南半分を手中に収めることで、文禄の役は一応のけりにしようと考えていたのである。
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