2025年7月18日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(27)中間管理職

さればでござる。
徳川ご本家のお血筋が絶え、初めて御三家から本丸入りなされた8代将軍吉宗公は、瞬く間に間部詮房どのを左遷、新井白石どのの解任と、先代の寵臣をご処分。諸制度を5代将軍綱吉公の御代にお戻しあそばした。また吉宗公は、紀州藩よりお供のご家来衆になるべく身分の低い者をお選びになられた。これはご老中のお顔を立て、幕府の役人を安堵させるための深謀遠慮でござる。

また一方、吉宗公はご就任間もない享保元(1716)年8月、注目すべき新政策を打ち出され申した。一つは鷹狩りの復活。もう一つはお庭番の設置でござる。近松の見るところ、鷹狩りの復活は弱体化した軍事力の強化訓練であり、お庭番の設置はスパイ活動による諸国大名への締め付けでござる──。

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2025年7月11日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(26)美女お断り

さればでござる。
吉宗公の8代将軍ご就任は、“紀州の名君”という触れ込みもござり、巷の人気もまずは上々。近松の見るところ、歴代将軍の中での好感度は第二位! 第一位は何と申しましても『生類憐れみの令』を廃止した6代将軍家宣公にござりましょうな。

ここに当時の落首がござる。
尾張には 能なし猿が 集まりて 見ざる聞かざる 天下とらざる
紀伊の国の みかん橘 葉は盛り 尾張大根 いまは切干し
いやいやいや、名古屋の方々気落ちなされまするな。将軍の座はしくじり申したが、尾張藩とて気骨がござる。お話進めばやがて大逆襲のくだりがござり申す。どうか気長にご覧のほどを──。

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2025年7月 4日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(25)男の花道

紀州熊野灘のくじら獲りは、太地浦を中心に隆盛を極め申した。昔は海流に乗って回遊してきたくじらを浅瀬に追い込んで捕らえるためでござったが、慶長年間より「突き取り法」が始まり申した。突き取り法は水軍の戦法よろしく20艘前後の船団でくじらを追い、刃渡り4尺の銛(もり)を体当たり同様に打ち込んで仕留める漁法でござる。されどこれでは取り逃がすこと多く、大物には歯が立ち申さぬ。

そこで光貞公の御代に開発されたのが「網取り法」でござる。すなわち大きな網を張り、囲い込んだくじらを突き取り法にて仕留め申す。網取り法は網船・銛船を合わせて50艘60艘という大掛かりな漁法でござる。さればでござる。吉宗公の天下取りは、この網取り法でござった! この大きな網で将軍の座を囲い込み、江戸城に乗り込んで銛を打ち込む!

さて吉宗公は、いかなる銛をご用意なされたか。まずはご覧あれ──。

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2025年6月27日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(24)へその曲げ方

さればでござる。
正徳5(1715)年は徳川家康公の百回忌でござった。そこで尾張継友公は日光山東照宮にご参詣のお仕度を着々とお進めになられた。これを知った紀州吉宗公は、尾張を出し抜いてさっさと日光へお出かけあそばし、権現さまの御霊(みたま)を拝したてまつった。5月12日のことでござる。

悔しがったのは尾張継友公、負けじとばかりにひと月遅れの6月11日、壮大な行列を組んで日光山東照宮にお参りあそばした。エゲレス語で申すならば、これすなわちデモンストレーション。尾張が勝つか紀州が勝つか。次期将軍の座を巡って水面下の争いは熾烈を極め申す──。

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2025年6月20日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(23)江島生島

さればでござる。ご幼少の家継公を擁して幕府の実権を握りしは、まあ何と申しましても側用人の間部詮房どの。これを理論で支えたのが新井白石どのでござる。お二方とも6代将軍の腹心にて、私利私欲とは無縁の人格者。家宣公のご遺命をよく守り、清潔な政治を目指して献身的な努力をなされたのは揺るぎない事実でござる。特に白石どのは、風俗の共生、貨幣制度の安定、貿易の管理など次から次へと建議書をしたため、いわゆる「文治政治」の基礎を築かれ申した。これについては近松も大いに賞賛いたしとう存ずる。

さりながらいかなる人物にも弱点はござり申す。間部詮房どのは月光院さまとのみだらな関係を取り沙汰され申した。新井白石どのは“論争の鬼”と言われ、傲岸不遜(ごうがんふそん)の気性を憎まれ申した。“出る杭は打たれる”の例えあり、特に誇りを傷つけられたご老中の方々は、間部・新井連合軍を快く思わず、ひそかに包囲網を固めつつござった。

そしてついに正徳4(1714)年春、思わぬところから火の手が上がり申した──。おおっと、こちらも火の手が……大変だこりゃ……あちっ!

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2025年6月13日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(22)裏工作

「わたくしは武蔵国川越在 駒林村のフメと申します。薬売りの夫勘五郎が行商に出たまま戻りませぬので、案じておりましたところ、近くの川で水死人があったと聞き、行ってみますとこれが夫の変わり果てた姿にござりました。お奉行所のお調べによりますれば、夫を殺して金を奪ったのはわたくしの父と兄でございました。親に夫を殺されたわたくしは、どうすればよいのでござりましょうか」

これは正徳年間に起きた実話でござるが、下手人の死罪は当然としても、実の親を訴えたこの女に罪ありやなしや。つまり親の罪を暴いてよいかどうかで侃々諤々(かんかんがくがく)、ついには名高い学者の論争にまで及び申した。

こなた朱子学の最高権威・林 大学頭どの。片や“論争の鬼”・新井白石どの。「この後は隠すべきもの、もし薬売りの妻は下手人の何びとかを承知の上で訴えしものならば、ただちに死罪に処すべし」「されど夫人には三従の教えあり、家にありては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従えと申す」「子が親に背いてよいならば、家臣もまた主君に背いてよいことになる」「子にとりては父が天なり」「父は天下にただ一人」「つまりこれでは夫が天なり」「夫は何人でも代えられ申す」「しからばこの女、父が下手人と分かりしみぎり、いかがいたせばようござりましたか」「親を諫めるべく、自害して果てればようござった」「商人の妻でござれば、そは望むべきにあらず」

いかがでござるかな、ご婦人方。実家が大事か婚家が大事か。これはいつの世にもなかなかの難問でござりまするな。さて、それがしが大事は!(と小女を差し)これでごじゃる──。

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2025年6月 6日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(21)将軍は四才

さればでござる。
紀州藩の治世において着目すべき点を申し上げれば、その1つは二代藩主光貞公が全国に先駆けて導入なされた「定免制(じょうめんせい)」でござる。定免制とは、稲の豊作凶作に関わらずあらかじめ定めた年貢を徴収する仕組みでござる。これによって紀州藩は、安定した収入を見込むことが出来、また煩雑な毎年の現地見聞も不要と相成り申した。無論農民より申し入れがござれば、事情を調べて減免措置も講じられ申した。やがて幕府もこの定免制を導入し、全国に広めるに至った次第にござる。

また光貞公は、明の国の法律書すなわち「明律」を詳しくお調べになり、治世の参考になされた。近松の見るところ吉宗公が大の法律好きになられたのも、光貞公の影響と存ずる。吉宗公は紀州藩主のみぎり、訴訟箱を設置し横目付を強化し、たくさんの法律をお作りあそばした。これなるは若き藩主吉宗公がお書きになられた家臣の心得でござる。エゲレス語で申すならばアニマル……もといマニュアルでござりますな──。

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2025年5月27日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(20)論争の鬼

6代将軍家宣公は綱吉公の甥御にござるが、御存じ桂昌院さまに快く思われず、紆余曲折あってようやく世継ぎとなられたのが43歳。さらに永遠と待たされ、将軍職に就いたときは48歳でござった。

さればでござる。徳川幕府の将軍は初代家康公から15代慶喜公まで。この中で飛び抜けて在任期間の長いのが、この11代家斉公。なんと50年。第2位が我らが8代吉宗公の29年1ヶ月。第3位が4代家綱公の28年9ヶ月。第4位が5代綱吉公の28年5ヶ月。第5位が3代家光公の27年9ヶ月。これがベスト5でござりますな。

で短い方は、この下から数えて15代慶喜公1年、初代家康公2年2ヶ月、7代家継公3年、6代家宣公3年5ヶ月、13代家定公4年9ヶ月。ちなみに宮沢首相1年9ヶ月、細川首相8ヶ月、羽田首相2ヶ月、村山首相……ちょっとこれ、先走りすぎましたかな──。

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2025年5月20日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(19)名君づくり

さればでござる。
6代将軍家宣公は代替わりとともに、70万両をかけて江戸城本丸の大改築に着手。宝永6(1709)年11月の完成を待って、西の丸からお引越しなされた。同時に御台所と3人の側室、お2人の若君も大奥へご移住あそばした。これに伴い先代の側室お伝の方は二の丸へ、新典侍どのは馬場先の御用屋敷へ移され申した。大典侍どのはそのまま北の丸にお残りでござった。

幕府ではこうしたご遺族を「おかかりびと」と申し上げた。これすべて新将軍の扶養家族でござる。いやはや、相続も大変でござりまするな──。

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2025年5月13日 (火)

プレイバック八代将軍吉宗・(18)報復人事

宝永6(1709)年1月10日、五代将軍綱吉公は在位のまま薨去(こうきょ)あそばした。享年64歳。死因は麻疹(はしか)でござったが、これには驚くべき異説もござる。すなわちこの『三王外記』にはなんと、御台所鷹司信子さまに刺し殺されたと書いてござる。将軍の座を家宣公に譲りたくない綱吉公はぐずぐずと隠居を引き延ばされ、再び柳沢吉里どの御落胤説を蒸し返したため、業を煮やした御台所が思い余って殺害に及んだ……と、事実この噂は江戸ちまたでまことしやかにささやかれ申した。

されど近松はこの説を採り申さず。前後の事情をつぶさに調べれば、やはり麻疹の後の不養生がたたったに相違ござらぬ。思うに……それがしが思うに、綱吉公は支持率の著しい低下にも関わらず、遮二無二権力の座にしがみつき、おのが健康を誇示せんがため床上げを急いで笹湯をお使いあそばした。この虚勢、この権力欲こそ、実は急逝の原因ではござるまいか──。

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